合気道は開祖植芝盛平翁(1883~1969)が、日本古来の柔術・剣術など諸武術を研究し、大正末期から昭和前期にかけて創始した体術の他、武器術(剣・杖)を含み、対多人数の場合も想定した総合武術。
植芝盛平開祖は、幼い頃から武道にはげみ、19歳で修行の旅に出て各流の武術遍歴を重ねられていました。紀州団体の長として北海道の開拓で入植中、大東流の武田惣角に出会い、その技に驚嘆し、武術的開眼を得たといわれています。その後も独自の武道を模索し、第二次世界大戦終戦後に「合気道」の名称を使い始めました。
合気道では投・極・打(当身)を修行し、攻撃の形態を問わず自在に対応し、多敵に対した場合でも、技が自然に次々と湧き出る段階まで達することを求められる一方で、勝ち負けを争うことを否定し、合気道の技を通して敵との対立を解消することを理想とする独自の思想を持った武道と言えるでしょう。
合気道の技は、体の運用・体捌きを用いて「相手の力と争わず」に攻撃を無力化し、制し、不必要な攻撃がありません。そのため、「和の武道」「争わない武道」「愛の武道」などと形容されたり、欧米では「動く禅」とも言われています。
合気道の稽古は、仕手と受けに分かれ、お互いの習熟度や体力にあわせて技を繰り返しながら取得し、心身の練成を図ることを目的としていますので、老若男女を問わず、修行することが出来ます。
松尾正純師範の、合気道との出会いについてのテキストです。
私が学生だった半世紀前、筑土八幡にあった養神館道場に、同級生高津成志と共に入門(昭和39年3月、
3280人目)しました。
塩田剛三先生は正座して待つ弟子たちの前にサッと現れると、毎回飛び出す黒帯たちを無視、「オオニシツ
!」と茶帯に受けを取らせるのが不思議でした。(最近大西忠男氏に伺ったところ「内弟子だったから」と
のことでした。 )
館長の技は非常に素早く2,3回演じて(どう動いたのか、分からない!)、すぐ稽古に入ります。先輩に聞いてもよく分かっていなかった、 、 、 )。
私たち二人は、基本動作だけを繰り返す日々が続きました。うまくできていなかっただけなのですが、当時はそれが不満で串田(大学の)先輩に「みなと同じように稽古したいから、受身を教えてください」と頼んだら、「バカヤロー、投げられて覚えるものだ!」と投げ飛ばされ、ダイビング、顔面着地でひどい目にあいました。
この時、毎回ひたすら繰り返した基本動作稽古が、現在の私の合気道の土台になっていることが、今はよく分かります。
当時と今と異なるのは、終末動作の腕と手首の動きです。手首の先に球体を持つ気持ちで、その外面を撫で回転させるようにしながら、身体を動かし斬り下ろすことをくどいほど、指導されました。
館長の思い出は、私に一か条をかけてくださったことです。 館長の極め抑えで(黒帯の先輩たちが痛がるのを見ていたので)、抑える瞬間畳を叩いたら「まだやってないツ!」
残念ながら、どんな痛みか経験し損ねました。